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伏見人

徳川家康さん(江戸幕府開祖/征夷大将軍)vol.179

江戸幕府ならぬ伏見幕府の開祖!太平の世をもたらした大御所☆

新年あけましておめでとうございます。

今年も「伏見人」をよろしくお願いします!

 

さて、本日の伏見人は、徳川家康さんです。

昨年は、NHK大河ドラマ『どうする家康』などで活躍され大変忙しくされていました。

今年は「源氏物語」の筆者 紫式部さんにバトンタッチされ、少し落ち着きを取り戻されたご様子です。

 

今回は短時間の取材でしたが貴重なお話をお聞きすることができました。

Q1. どんなお仕事/活動をしていますか?

岡崎城

私の歴史を通じて、日本が歩んできた時代を知ってもらう活動をしています!

 

生まれは愛知県岡崎市。

その後、駿府(静岡市)などを転々とし、現在は栃木県日光市に居を構えています。

日光市へ移住してから約400年。実に長い年月が経ちました。

ただ、現役の頃と変わらず日本国中への出張が多いため、いまだもって忙しくしています。

 

江戸幕府の開祖として、「神の君」とも呼ばれ大変恐縮しています。

これも「鳴くまで待とうホトトギス」といいますか、時代のタイミングがそうさせたに過ぎません。

ただ、血で血を争う乱世の世に終止符を打ち、長きにわたる太平の世を作ったことは、今でも大きな功績であったと自負しています。

 

現在は、私の人生を通じて、様々な教育現場でリアルな歴史教育に携わっています。ドラマに出演したり、バラエティ番組などを通じで、私の生きてきた時代を知ってもらう活動です。

日光東照宮

Q2. 大切にしていること/こだわり

過去を知ることで平和の尊さを学んでください!

 

先日、私の大先輩方と今後の取り組みについて意見交換を行いました。

織田信長さんや豊臣秀吉さんをはじめ、天海上人や服部半蔵さんなど、歴史サミットみたいな感じでしたよ。

 

その会合のテーマは、いかにして命の尊さや、戦争の凄惨さを現代の人々に伝えていくかです。

 

我々が生きてきたい戦国時代は、自分の命をも犠牲にしても、守るべきものを守ってきた時代です。

守るべきものとは、先祖代々受け継いできた「領地」です。これを守るために皆が一所懸命になっていました。

 

ちなみに、一所懸命という言葉は、武士が賜った『一か所』の領地を命がけで守り、それを生活の頼りにして生きたことが言葉の始まりです。

 

その戦乱の世は約150年間も続きました。

様々な憎しみや怒りなど複雑な感情も絡み合って、後戻りできない時代背景がありました。

力を力でもって制することでしか、生きるすべはありませんでした。

 

我々は、過去の人物です。そのため現代の皆さんに救いの手を差し伸べることはできませんが、歴史教育を通じて、その思いをお伝えすることはできます。

 

ただ単に歴史上の事実を学ぶだけではなく、その裏に潜む当時の人々の思いや感情に思いを馳せてください。戦争でどちらが勝ったか負けたか、誰が天下をとったかなどを勉強するのではなく、どうか戦国時代というものがどういう時代であったかを、ドラマなどを通じて感じてみてください。

 

この歴史教育こそが、戦争という負のスパイラルを止めるヒントであると確信しています。

 

ちなみに、私も鎌倉幕府創業の歴史が書かれている『吾妻鏡』を愛読していました。ヒントは全て、歴史にある。私はそう思います。

Q3. 伏見のココが好き!!

伏見は異文化コミュニケーションの町!

 

伏見の街は、かつて交通の要所として栄えてきました。

 

安土桃山時代に豊臣秀吉が伏見城を築城し、政治経済の中心都市として伏見の町を城下町として整備してきました。

大坂と京の町とを結ぶ水運の拠点として伏見港も整備され、全国の大名たちも伏見の町に集められ屋敷を構えることに。かつての大名屋敷跡には、現在でもその町名が残っていますね。

 

残念ながら、伏見城は1623年以降に廃城になりました。

しかし、その後も水運・陸運に恵まれたこの地は、全国の多くの人々の交流の地として発展を遂げていきます。そういう意味で伏見の地は、全国に開放された異文化の交わる地域でした。

 

現在は「京都市」の仲間ですが、生粋の京都人にとっては「洛外」であり、伏見は京都ではない!と。

しかし、かつて伏見は政治や経済の中心地で、昭和初期には「伏見市」でもあった人口27万人の都市です。伏見の町は、今でも物流などの拠点として栄え、大手筋商店街など多くの人々が行きかう商業や経済の中心地です。

 

そんな伏見は、京都でもなく大阪とも違う。異文化を許容してきた伏見ならではの伏見文化が培われた街です。

Q4. オススメのお店・場所

伏見城、そして御香宮神社

 

実は徳川家にとっては、伏見は大変ゆかりの深い土地です。

 

関ケ原の戦いの折に、秀吉の伏見城は消失しましたが、その後、私が伏見城を再建(1602年)しました。

その後、1603年には、ここ伏見城で征夷大将軍の宣下を受けています。

 

私の息子の秀忠や孫の家光もこの伏見城の地で征夷大将軍の宣下を受けていますので、江戸幕府のスタートは、実はここ伏見の地なんです。また、将来の御三家(紀伊、尾張、水戸)の息子たちも、ここ伏見で誕生しています。

しかし、孫の家光が江戸に移った後(1623年)、その役割を終えたということで伏見城は廃城となりました。

 

ちなみに、伏見城研究会 会長の若林正博氏の研究によると、駿府時代を除いて、私が「江戸」に滞在していた期間より、ここ「伏見」に在住していた方の期間が長いとのこと。

伏見城といえば秀吉のイメージが強いですが、実は、私の方が伏見との縁が深いんです。そういう意味で、「伏見幕府」といっても過言ではないと思います。

 

しかし残念ながら、伏見城と秀吉のイメージが強すぎて、、、

確かに伏見の町は秀吉が築きましたが、秀吉は4年程しか住んでいなかったんですよ。

もっと徳川と伏見との繋がりを再認識して欲しいです!

 

さて質問の伏見のおススメの場所ですが、それは安産の神様 御香宮神社です。

コチラには、日光東照宮の分社である「東照宮」があります。伏見への出張時に利用しています。

 

ここ御香宮は、本殿に我が家の家紋「葵の御紋」を見ることができますよ!

また、秀忠が、この伏見城で生まれた娘である千姫のために奉納した千姫神輿(六百貫≒約2.3トン)が保管されています。かつては、御香宮神社から借用され、伏見桃山城に展示されていましたが、現在は御香宮神社に戻ってきています。お祭りの時や、お正月に見ることができます。

Q5. 今後の目標

伏見に新たな息吹を!

 

私も含めて、徳川家が大変お世話になった土地「伏見」。

 

そんな伏見の名産・名物は?と聞かれると、皆さん何をあげられますでしょうか。

現代なら、「日本酒」が真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか。

伏見の地は、交通の要所として栄え、良質な軟硬水にも恵まれたため「日本酒」造りが盛んになりました。

伏見は、広島の西条、兵庫の灘と並んで「日本三大酒どころ」として有名ですよね。

 

伏見には、かつて「巨椋池」があったため、鴨やジュンサイなども名産でした。

また、丹波橋に呉竹という地名がありますが、かつては「竹」やその加工品も有名でした。

しかし、今や巨椋池も無くなり、竹林も僅かに残す程度です。

 

さて、質問の今後の目標ですね。

日本酒以外に新たな名産を生み出すことが、大きな目標です。

それも異文化が入り混じった伏見ならでの何かを。

 

例えば、今や廃城寸前の伏見桃山城をリニューアルし、ホテルやコンサートホール、そして伏見歴史記念館などを建設し、伏見以外からの観光を誘致するのも一つです。

 

さて、壮大なテーマですが、伏見の皆さん!一緒に考えていきませんか!

Q6. まいぷれスタッフ独自調査中!最後の晩餐に食べたいものは?

たくさん食べたいので選べない!

 

私は天麩羅、特に鯛の天麩羅が大好きです!

徳川家康は、鯛の天麩羅を食べ過ぎて亡くなった・・・と言われていますが、そんな分けないでしょう!

 

今も、時々鯛の天麩羅を食べていますよ。

 

御香宮神社

神社(安産祈願、初宮・初生誕参り、七五三参り、十三参り)

安産の社 御香宮神社

京都市伏見区御香宮門前町174

【編集コメント】

先日、伏見城研究会 会長の若林さんの講演会を聴きに行きました。テーマは「サザンは伏見桃山城に来たのか!?」。結論は、ずいぶん昔に来て歌を披露した!です。

 

そんなお城も今や登ることもできず、リニューアルを待つばかり。秀吉が築城し、家康が拡大していった伏見城。後に廃城となるも昭和に復活しましたが、現在は残念ながら見るだけのお城に。

 

そんな伏見桃山城を復活させ、再度、サザンに来てほしい!!

そんな思いを馳せながら、今日も伏見桃山城を望遠しています♪

(取材 まいぷれ編集長)

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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